水辺

雑記

2日間メットライフドームへ行った。ひさしぶりにこのブログを開いて1年前の記事を読み返してみても、こうして2ndについて書いていることが信じられないくらい怒涛の1年だったように思う。

昨年のライブビューイング・今年の現地での体験を通して、わたしはナナライにノンフィクションを求めているわけではなく、TRIGGERが見ているかもしれない景色・TRIGGERのファンとして見たかもしれない景色のなかで生身の人間がキャラクターという虚構に寄り添う姿、緻密なフィクションにまぼろしを探しているのだと感じた。

ステージに立っているのはキャラクターの「声」を演じている方たちで、アイドルではないし、キャラクターでもない。作中のキャラクターはアイドルだが、肉体を持たず実在しない。

わたしはアイドルという存在が好きでしばしば生身のアイドルに対してキャラクター性を見出してしまう。

アイドルとしてそのキャラクターを演じている・徹している(ように映る)あるいはそのように認識されている、打ち出されたイメージなど いちオタクの想像で補完された部分のことをキャラクター性と呼んでいる。そしてこのキャラクター性とアイドルはニアリーイコールであると考えていて、ここから「キャラクター性」の部分が抽出され具現化された存在が「2次元アイドル」であると考えている。(例えばクールなキャラクターは青・元気なキャラクターは黄色のイメージなど)

2次元アイドルはキャラクター性を伴った存在というより「キャラクターそのもの」という認識がある。つまり想像上の生きもので、虚像だ。

あの日わたしは、見上げた場所で歌って踊る3人の後ろ姿・目の前にいるはずなのに半身が光に包まれ目視できず それでも歌声が温度をもって伝わってくる感覚・スモークに覆われた3人に光があたり浮きあがった影 あの靄のなかに確かにいたけれどあの瞬間ひかりに照らされなければみえなかった影 3色にきらめくペンライト そういった光景のなかにある幻影をみつめていた。

あのパフォーマンスや空間まるごとひとつの解釈・ひとつの在り方だと思っているし、そのなかで各々がじぶんの感情や心象と照らし合わせてあの場所にいて、様々なライブの受け取り方がある(もちろんこのブログに書いたこともすべてわたし個人のひとつの考え方に過ぎない)

1stの記事に「生身の人間がアイドルとして在ること/キャラクターがアイドルとして在ること、その間にある溝は一見深いようでいて、映し出される像の部分は地続きになっているように思う。「TRIGGER」という観念もそこに等しく在るのではないだろうか。」と書いていた。前提としてあった生身のアイドル≒キャラクター性を繋ぐのが「2次元アイドル」という本来こちらが声を届けることは叶わないはずの存在で、だからこそあの肉体をもった・地についた空間のことを必死に反芻しようとしているけれど、ライブについて書こうとするたびに、あの瞬間はほんもので自分が存在していなかったような、ふわふわとした頭で走馬灯をみたような、現実だったけれどそうではなかったような不思議な気持ちになる。

TRIGGERの曲を聴くあらゆるシチュエーションのなかで、自分の内側にあるさまざまな気持ちのことを考える瞬間がある。TRIGGERが強くあると歌うならわたしは強くありたい、諦めないというのなら諦めずにいたいと思う。わたしにとって揺らがないしるべだ。

アイドリッシュセブンとの対比や打ち出しているイメージから、黒い衣装を纏った彼らは光を背負い、振り向けば影のようにそこにあり、光のあたる場所で輝きを増す・絶対的で一身に光を浴びるグループなんだという第一印象を強く抱いていた。今回TRIGGERという存在は影としてありながら自らも光を放っていることをこの身をもって体験したのだと思っている。

以前、古語では影(景)に光という意味があると教えてもらった。かたちとして捉えられた影は実体としての姿であったり、はたまた実体のないものであったりと現代の解釈では矛盾が生じる。わたしはこの影というパラダイムに彼らを見出していて、転じてできた「映」についても同様に、光が妨げられたとしても映し出される影は濃く、彼らから放たれる光は新たな道を照らしていくのだという確信のもとにある。